2022年9月まとめ

NOTE

(9月30日から10月8日までちょこちょこ書き溜めてました文章です)

今日で9月も終わりです。
9月も、めいっぱい頑張りました。
やれるだけのことはやった、と思います。
いつも日記がわりの手帳にメモを書いて記録しているんですけど、8月9日から新しいノートになって、
今まではずっと「黒革の手帖」ではなく、笑
革じゃないけどDAISOに売ってるA6サイズの合皮調の黒いノートを使っていたのです。
このノートが気に入っていて2020年から使い始めて今までに7冊使い切っています。

左から順番に年代順。この黒いノートには2020年1月から記録を始めてる。

この中にたくさんたくさん歌詞や曲の元となるアイディアを書き込んできたのですが、
DAISOのラインナップから黒いノートがなくなってしまったようで、現在は販売されていません。
代わりに同じサイズで茶色のノートが出ています。
なので、今回から茶色のノートに日記を書き始めました。
毎日必ず書くわけではないので、60ページ(両面ある)1冊使い切るのに3ヶ月くらいは掛かってると思います。
で、8月9日の日記を読むと
ちょうど、めちゃくちゃ暑い日で車の後部座席に冷房が効かず、軽く熱中症になりかけて貧血になってしまった日がその日でした。「危険な暑さや〜」と書いています。
そのときにカルディでハリッサの瓶(チュニジアのソース)をまとめ買いしていて、それが無くなってきたのと歯医者さんの定期検診に来るタイミングでたまたま今日また8月9日と同じショッピング施設まで来ています。
歯医者さんの待ち時間にノートを読み返していたのですが、この間にもいろいろなことが毎日起きていて私の感情も揺さぶられて、あちらこちら忙しく動き回っていることがわかります。
「動き回っている」のは物理的に移動したって意味でなく、感情の話です。
でも、いったん過ぎてしまうと不思議なくらいに忘れてしまうものですね。
こうやって読み返すまでは思い出さないくらい今やることで手一杯です。

鍵盤の上にオブジェっぽく積んでみてるだけ。写真撮る時にいろんな構図を考えるのが楽しい。撮影はiPhone12の標準カメラ機能。

◆9月はayaradio727関連のリリースが2件ありました。
「あせらないラジオ」も金曜日が5回ある月だったので、5回配信しました。
9月9日に私がホストになって「スペース」も開催しました。来て下さったみなさま、気に掛けて下さったみなさま、ありがとうございます。また半年に1回くらいのペースでやれたらやるかもしれません。
9月は何度か台風もありましたね。まだ清水市の地域では断水しているところもあるそうで本当に大変だと思います。(この文章を書いた時点ではまだ多くの地域で断水中でした。10月7日のニュースで12日ぶりにすべての地域が解消されたと報じられています、長期間、、、本当に大変だったですよね。)
◆10月が締切の、ある本を読書して感想を提出するという課題があり、上中下の三部作なので先週までその課題図書を一生懸命読んでいました。(これもこの文章を書いた後に締め切りまでには提出できました)
◆いろいろと予定も入っていて、ラジオ以外には特になにか発表できるようなことは何もしていないものの、体感としては、割と締切までの時間を気にしながら過ごしていた気がします。

とある素敵なギター工房にて、マスターがご馳走くださった珈琲。お話が弾んで楽しい時間でした。丁寧なお仕事っぷりにも感激しました。

週1のラジオ(Podcast)配信が始まってからこの9月で1年が経ったのです。こんなに休まずに一定期間なにかを続けられているの、今までの私にしては珍しいです。「継続は力なり」と小学校のときの担任の先生が書いた教室に貼ってあった画用紙の貼り紙を学年が終わる時にもらってきて、現在の自分の部屋の壁に貼っています。ずーっと貼ってあったわけじゃなくて、昔のものを整理していて出てきた時に「あ、これ貼っとこう」と思ったのでした。まあ、そういう言葉を見えるところに貼っておかなくちゃいけないくらい、私にとっては「継続すること」自体がなかなか難しいことなのです。

この担任の先生の字が好きだった。まっすぐで凛としていて嘘のない字。今はどうされているのかなぁ?

だから、あせらないラジオは本当なんでなんでしょうねぇ、続けられている不思議。
もちろん毎週毎週締切があるものなので、それなりにやることは多く、最近は内容もかなりのボリュームになって来ているので、時間は掛かって多少の大変さもあるのですが、「面倒くさい」とか「大変」っていうのは自分の好きじゃないことには強く感じるのに、好きなことだとそこまで面倒に感じないです。
最近は以前よりは本もよく読むようになったので、そこから自分の関心事に関連づけて考えることが多く、次の作品を作るまでの準備の時間としてきっと必要なときを与えられているんだろうなぁと感じています。

年齢のことばかり書いてしまう傾向に私はありますが、やはり「時間」について気がついたら考えちゃうんですね。「人は生まれた時から死に向かって近づいている」というのは、昔からいろいろな人が言っていますが、「死を意識して生きる」かどうかは人によって差があるんだと思います。「九死に一生を得る」体験をしたことで意識が変わることもありますね。病気や事故や事件やアクシデントで、「死にかけた」人なら、生きているというだけで当たり前じゃない、一瞬一瞬が貴重なものとして感じられるはずです。今はこうやって命があっても明日どうなるかは誰にもわからない。普段はどうしても慌ただしさによってそういった感覚は薄れがちですが、次の瞬間、何が起こるかは私たちには予想できないのですよね。災害が起こったときや病気や事故で命の危機を感じる経験をしたに時は特に強く実感するのが実は「生」の隣り合わせにいつも存在している「死」です。メメントモリ memento mori(死を忘るることなかれ:元はラテン語)ですね。今年39歳になった私は、「40歳になった時の自分」がどんな自分でいたいのか、を想定して、小さな目標を立てながらひとつひとつ自分なりに達成していくことを現在の喜びとしています。だから「何歳からでも好きなこと始められる」をモットーにしてはいるんですが、同時にかなり自分の年齢を意識しながら生きているんだと思います。30歳になるときはなんだかもうそれどころじゃなかったので、気がついたら30歳から何年か過ぎていた、ような気もします。それも今はそういうふうに思っているけれど、当時の私が実際にどう感じていたか、までは記憶していないです。28歳のときが個人的にはとっても大変な時期でした。

気がついたら空の雲を追いかけてる。空の雲にさわってみたいなぁってこどもの頃からずっと思ってた。今も思ってる。

わたし「振り返り」が好きみたいです、と前にも書きましたが、これから作る作品の中にどんなふうに自分自身の体験を反映させていくのか、自分はどうしたいのか、どうしたくないのか、、、それを最近はずっと考え続けていて、ある方には回想録っぽい文章を日誌みたいに送らせてもらっていて、自分語りは普通は歓迎されないだろう、と思いつつも、なんだか遠い昔のことも割と近い昔のこともむにゃむにゃ思い巡らせてしまうのですよね。(そんな回想に付き合ってくださってありがとうございます)そして気づいたことがあります。自分はきっと物心ついた時から「言葉」についてずっと考えているんだなって。「ことば」がテーマであり、何かにつけてなんらかの理由づけをしたくなるのも、自分にとっていちばん「しっくりすることば」を探し続けているからなのかもしれないなぁと。ここでいう「ことば」(あえての、ひらがな表記にしています)は活字で表されたもの、に限定されていなくて、ときに「無音」のことばなのかもしれないし、音楽も私にとっての「ことば」(language=言語)になっていたんだろう、というのが最近の「気づき」です。これはいま次回のアルバムを作ろうとしているので、実際に音楽を作る前の準備作業(下ごしらえ)なのでしょう。

外食めったにしないけど美味しかった定食。栗原はるみさん食堂。美味しいものはひたすら幸福をくれるからイチバンの特効薬かも!

「お料理と音楽は似ている」説は料理人の方からもミュージシャンの方からも両方から聞いたことがあります。私は自慢じゃないけど「美味しいものがわかる!」と自分でよく言っているくらい「食いしん坊」で出来ていて、ちょっといいものが好きなので、美味しそうな勘が冴えているほうなのです笑 なので、自分で作るのも好きだったし、食べに行くのも好きだったし、誰かに食べてもらって喜んでもらえると本当にしあわせを感じて料理関係の方面もいいかなぁとちょこっと思ったこともあります。といっても決して器用ではないです。手際も良くないです。きっちり計ったりはまあまあ出来るかな。料理も始めようと思ったら何歳からでも始められますよね。男性も女性も子どもも大人も関係なく、やる気にさえなれば、始められる、いくらでも極められる、好きなようにできる。上手い下手はあるのかもしれないけど、普段の料理で常にコンテストしているわけではないので、競い合わなくても良い。それこそ「それぞれの味がある」事がらで究極的にはその人の好み次第なんですよね、結局は。ジャンクなものだって食べたくなる時あるし、からだによさそう=味も必ず美味しい、とは限らない。チョコミントみたいに好き派と嫌い派がまっぷたつに分かれるものもたくさんある。味覚って不思議だし面白い。

外食で美味しかったPart2 あ、この写真だと前菜の半分もう食べおわっちゃってる パンもオリーブオイルも旨し。大満足のビストロ!

これから先の自分が時間が経ってから2022年9月を思い返すときに、きっとほとんどのこと忘れてる!のだと思います。これまでのこともほんとうにビックリするくらい忘れてしまっていて記憶ってカケラになっててそれも全体図で残されているものじゃなくてバラッバラにあっちゃこっちゃに散らばっていて深海に沈められていたり宇宙で超新星になって爆発したりしてるのもあったりして、脈絡ないったらありゃしない!って可笑しくなります。もっともっと歳を重ねていったらどんなふうになるのかなぁ。そのときになってみないとわからないけど記憶違い&勘違いは今の時点でもよくあることだから、「正しい」記憶かどうかなんて、それがその人にとっての記憶なんだからたいした問題じゃ無いのかもなぁって思い始めました。ファクト(事実)チェック。エビデンス(根拠、裏付け)、ソース(証拠となる源)。。。確かに確かに、必要な場合、多々あります。デマも捏造も含まれているのがデフォルトになってきたら、情報を何でもかんでも鵜呑みに出来ない、と痛感します。ただ、どうやったって証明しようのない現象って存在するのになぁ。。。もやもやするような事態が現実にはいっぱい起きていて「なんでなんやろう。。」と憂いたり嘆きたくなることがないわけではありません。その話題について言及する自分が客観的にどんな人に映るだろうか、というイメージを気にしてしまって、自分の考えを表明するのを控えているところもあるのだと思います。だけど、自分の思うことをもっとポンポン言えるようになったらいいのになぁーと、いつもの公園を歩きながら感じていました。いつもの公園への田んぼ道を歩くとき見渡す限りまわりに誰もいないところでもこれまではずっとマスクをしていましたが、誰にも会わない道なのにマスクする必要ないよねぇ(原則、屋外でのマスクは必要ないと厚生労働省も10月7日に公式ツイートで発表している、それも賛否両論の反応を受けていますが。。)と、吹いてくる風を顔に直接感じながら歩くと、息がしやすくて、なんとも言えない開放感があります。もちろん心配に感じている人の前では着用できるように持ち歩いているけれど、コロナが流行し始めた最初の頃は飛沫感染を防ぐからマスクは予防効果ありと信じて、(「専門家」らしき人が言っていた、しきりに報道されていた)一生懸命家族にも着用するよう促して家庭の中の「マスク警察」みたいになってしまっていた私ですが、その後、いろいろと見た上で考えが変わっていき、小さな子どもたちまでマスクをして黙食しなければいけない、何も気にせず遊びたくても自由に遊べない、スポーツする時までマスク着用を一部奨励しているところがある、なんだかなぁ。。。と感じるようになりました。でもこれは大変デリケートなトピックスで、それぞれの人の信じているもの、見聞きしている情報によっても、あまりにも異なるので、公開する文章には今までは書かないようにしていました。友人たちも身近な人もそれぞれに考えが異なっているのを知っているからです。結局どうなのか、わからないことが多すぎて結論はこれといって持っていないのですけど、自分の子どもがいない私でも、年齢的にもし自分に子どもがいたらどうしていただろう、ということはよく考えます。「現状いないから考えなくていい」とはならないです。未来に何が残せるのか、面倒くさがって先送りするのはやめにしたい、自分がされて嫌だったことは繰り返されないようにしたい、と、それは心から考えています。

「あせらないラジオ」#57のオープニングトークでもお話ししました韓国のおともだち画家のイさんが贈ってくださった「純粋」という絵

さぁ、2022年10月です!もう始まって8日も経っちゃってますけど、、、笑 地道に積み重ねていきたいですね、できることをひとつずつ。出来なかったことよりも出来たことを喜んでいこう。どんなにささいなことでもOK。なんとかなります!きっとね。「あせらないラジオ」は今や私自身のことも励ましてくれています、聴いてくださるみなさまに感謝いたします。

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